映画生一本


   「柘榴坂の仇討ち」

 浅田次郎の短編小説を「沈まぬ太陽」の若松朗監督が映画化した大人の楽しめる正統派時代劇。
江戸から明治への時代の変遷の中で実際にあった歴史的事実、186033日、彦根藩主、大老・井伊直弼が18人の水戸浪士に登城中の賀籠を急襲されて暗殺された「桜田門外の変」文明開化した明治6年(1873年)に政府が交付した復讐を禁じる「仇討禁止令」をスト-リーの核として取り入れている。 主君の仇討を命じられた侍と、彼に追われる浪士、それぞれの不器用な生きざまを中井貴一と阿部寛が情感たっぷりに演じている。 また出番は少ないが井伊直弼を人間国宝でもある歌舞伎役者・中村吉右衛門が演じ、悪人のイメージが持たれがちな大老を穏やかな人格者として演じているのも新鮮。 1860年.彦根藩主の金吾(中井貴一)は大老・井伊直弼の人柄を愛し仕える近習役だった。だが桜田門外で直弼が討たれ、実行犯を取り逃がした彼は厳しく叱責される。それから13年、金吾は妻のセツ(広末涼子)に支えられひたすら仇を捜し続けていた。だがようやく実行犯の十兵衛の居場所をつかんだ矢先、明治政府が仇討を禁じてしまう・・・。

 文明開化の名の下、袴姿から洋服、帯刀禁止、髷からザンギリ頭へ-世の中が激しく揺れ動く中、侍たちの貫き通した誇り高き武士の精神が格調高く厳かに描かれている。(衣)


「かぐや姫物語」

2013年邦画ベスト1は?と聞かれたら私は「かぐや姫物語」と答えます。多数の作品を観てないのですが、去年最後に観たこの作品が一番感動しました。 親は子どもが生まれる前は、どうか元気に生まれてきますようにと神様や仏様にお願いします。その時点では純粋にその事だけを願います。「月からきたかぐや姫」は竹から生まれ、優しいおじいさんと、おばあさんの元ですくすく育ち、幼馴染の子ども達と元気よく野山を駆け巡る。かぐや姫が思い描いていた幸せな暮らしがそこにありました。しかし、おじいさんが山で金塊と、美しい着物を見つけてからその暮らしが終わってしまい、都での決して姫が望んでいなかった生活が始まります。
 おじいさんもやはり姫の幸せは、立派な家に住み、きれいな着物を着て、身分を手に入れて姫を高貴な方に嫁がせる事と信じて、その様に進めていくのですが、とうとう姫の限界が来てしまい、「もうこの星では生きていけない」と思った瞬間に月に戻る事が決まってしまいます。
 おじいさんとおばあさんは、本当に末永くかぐや姫と暮らしたかった。その為には、姫が幸せでなくてはいけなかった。それは、姫が生まれた野山で自然の中で暮らし、好きな人と結ばれる。という単純な事だったのに。 人間は欲や煩悩無くしては、生きていけない。それに気が付いて、姫ももう一度この星で生きたいと願ったのですが、覆せずに月に帰る姿が切なかったです。私達も、幸せの本質は何なのかを原点に戻って思いだし、忘れないよう努める事が大事だと改めて思いました。製作期間8年の高畑監督のこの作品がまだ映画館で上映していたら、是非観て下さい。姫の様々な感情がスクリーン一杯にほとばしります。(鹿)

 


今月のイチオシ映画はイタリアの巨匠エルマンノ・オルミ監督の「楽園からの旅人」。紛争や飢饉による混乱で貧困や飢餓の続くアフリカ各地から、船で地中海に脱出し欧州を目指す人々の困難な、命がけの旅は「海と大陸」でも描かれていた現実の深刻な問題であるが、この映画は取り壊されようとしているイタリアの小さな教会にたどり着いた難民と、宗教の違いを越えて彼等を守
りぬこうとする教会の司祭をめぐる物語である。神話的な、寓意に満ちたストーリーの展開は、名作「木靴の樹」から前作「ポー川のひかり」まで一貫して流れており、宗教の本質を見つめる監督のまなざしを、深く刻みこんだ映画になっている。
「囚われ人」は、2001年にフィリピンのバラワン島で起きた、イスラム武装勢力による21人の観光客誘拐事件を題材にした映画である。フィリピン人として初めてカンヌ映画祭監督賞を受賞したブリランテ監督の作品。主演のイザベル・ユベールは「愛、アムール」では苦悩する娘役を重厚に、一人三役の不思議な韓国映画「三人のアンヌ」では軽快に女優役を演じている。韓国映画では「嘆きのピエタ」が必見。去年、芸術をうみだす苦悩を一人映画「アリラン」で撮ったキム・ギドク監督の作品。人間の本質をえぐるような深い情念に満ちた、心理サスペンス・ドラマである。   個性的なフランス映画が多かった「危険なプロット」は、作家になれなかった教師と文才に恵まれた生徒が、いかにもオゾン監督らしい知的で緊迫したかけひきや、ユーモアと官能的な情景を交錯させながら進行する物語。フランスでは観客百二十万人を動員したそうだが、日本人には少し難しい?日本人受けするのは「クロワッサンで朝食を」かな。開演30分前に満席です。家政婦のアンヌが眺めるパリの人びとや街の風景が素敵だし、裕福だが頑固で孤独な老夫人を演じるジャンヌ・モローもさすがの貫録です。「大統領の料理人」は主演のカトリーヌ・フロが素晴らしい。「女はみんな生きている」や「地上5センチの恋」の時よりも一段と女っぷりが上がって、何より精神の「自由」を感じさせる風情がいい。後に南極料理人になって働く姿もいい。 (二郎)




―異文化と出合う―

カナダ映画の「魔女と呼ばれた少女」はスゴイ。映画の舞台はアフリカのコンゴ。反政府軍に村から拉致され、ゲリラの兵士として戦闘に参加する少年少女達の物語だ。十二才の少女コモナは拉致される際、両親の射殺を命じられ、撃ってしまうが、自分が危険な状態になると彼等の亡霊が現われるようになり、危険を察知できるので仲間から「魔女」と呼ばれるようになる。少女を演じているのは、コンゴでストリートチルドレンだったというラシェル・ムワンザ。この映画でベルリン映画祭の主演女優賞を受賞した。彼女の独特な存在感が、言葉を失うような凄惨で残酷で理不尽な話にリアリティを与えている。感動するのは、狂気の支配する人間の世界にあって、亡霊達を見据え、彼等の魂の鎮魂を目指し実行する少女の姿。妊娠し組織を脱出して、命懸けで新しい家族の元に向う姿を坦々と描いていく映像。人間というどうしょうもない存在に、かすかな希望の光の射すようなラストです。あまり考えることもしないで持っている自分の価値観を、底の方で揺さぶられるような、ショックを感じさせる映画でした。最近のカナダ、特にケベック(フランス語圏)の映画はスゴイですね。昨年も「灼熱の魂」で、中東から亡命した女の、凄まじい人生を追う映画で度肝を抜かれました。原作戯曲の原題「焼け焦げる魂」がそのまま映像になっていた。それと「ぼくたちのムッシュ・ラザール」も去年のカナダ映画の秀作だ。モントリオールの小学校の代用教員になる主人公は、アルジェリアからの移民だった。移民の国カナダは、異文化と出合う機会の多い国。取り返しのつかないような悲劇を背負った人々から、新しく生まれてくる豊かな想像力、創造力から目が離せない。

最近は感心する映画が多い。台湾先住民セデック族の、抗日事件を扱った映画「セデック・バレ(真の人)」も凄まじい。みてしまうと、彼等の行う首狩りという行為を「野蛮」の一言で片づけられなくなる。カルチャーショックを受ける。カルチャーショックは、映画の効能の最たるものです。中国の王兵の新作「三姉妹」は去年の「無言歌」に続く作品。中国雲南省の高地で暮らす三人の姉妹を三年にわたって撮影したドキュメント映画。昭和三〇年代の日本の田舎は、もっと貧しかった気がするけれど、教育や社会、政治的な状況を考えれば、ずいぶん厳しい風景には違いない。五年後、十年後の彼女達を見てみたいものである。じっくりとみるに値する力作。神戸KAVCで七月下旬から八月に上映予定です。今評判のインド映画「きっと、うまくいく」も大変おもしろい。噂どおり、ホールは満席。KAVCでの上映終了後、シネリーブルで再上映すると聞きました。きっと立見がでます。お早めにどうぞ。スペイン映画「朝食、昼食、そして夕食」も、何組かのカップルと夫々の食事風景をうまく絡ませながら、変化していく人間の感情をのぞかせ、考えさせる。映画をみる喜びを堪能させてくれます。「はちみつ色のユン」は、朝鮮戦争の後、養子としてベルギーに渡った韓国系ベルギー人のユンが、アニメーションとドキュメンタリーを組み合わせて制作した映画。ここにも異文化との出会いによる、哀しみや辛さ苦さを経て、豊かな創造の花が開いている。

 ☆「永遠の僕たち」推薦します



 冒頭に流れるビートルズの曲、ネクタイを締めた主人公の登場でどことなくイギリス映画っぽい雰囲気だが「エレファント」の青春映画の名匠ガス・ヴァン・サント監督のアメリカ映画である。
基本的には恋愛映画だが恋愛映画のとしてだけで見ると、不治の病に侵された少女との切ない恋という定番中の定番でしかない。しかし、これに見ず知らずの人の葬式出席が趣味の主人公・自分の臨死体験・彼唯一の友人、日本の特攻隊の幽霊(加瀬亮)・不治の少女の余命・切腹の話題・病院・霊安室のデート。これらはいずれも「死」に関連することであるが裏を返せば「生」を感じさせるモチーフともなる。ある意味ファンタジー的なリリシズム溢れる佳作だ。(衣)

―詩人を祭るー

「ある海辺の詩人」をみた。画面から「詩情」が滲みでてくるような映画。イタリアのベニスに近いキオッジャという、ラグーナ(潟)に浮ぶ美しい漁師町が舞台。酒場(オステリア)で働く中国から来た女と、30年前ユーゴスラビアからやってきた初老の漁師。異郷で暮らす二人の心の触れ合いと別れを、夢のように淡い情景の中で静かに語り、映し出す。女の一番の願いは、故郷に残した我が子をイタリアに呼び寄せ、一緒に暮らすこと。「詩人」と呼ばれる男の楽しみは、仲間とオステリアで「プルーン入り珈琲」を楽しむこと。女の故郷には川面に燈明を流して、古代の詩人「屈原」を偲ぶ祭りがある。満潮で水浸しになったキオッジャの街に、蝋燭を灯した紅い紙の蓮が静かに流れて行く。入水した詩人の霊に、孤独に生きるすべての人の胸に、かすかな灯りを燈すような蓮の色。深く目にしみる。
主演のシェン・リー役は、ジャ・ジャンクー監督の「長江哀歌」でヴェネチア映画祭グランプリを受賞したチャオ・タオ。ジャンクー作品のミューズと呼ばれているが、私は今回の異国?の作品で初めて瞠目するほどの強い印象を持った。柔らかくしっとりとした情感と、笑顔の中に深い孤独を感じさせながら凛として生きる姿が美しい。監督・脚本はイタリアの移民問題を多くのドキュメンタリー作品で発表してきた、アンドレア・セグレ。この作品が劇映画デビュー作だ。今回も「移民問題」が影を落とす。死ぬまでにナポリは見なくていいが、キオッジャの街を歩いて、酒場で「プルーン入り珈琲」は飲んでみたい。   (二郎)


「おじいさんと草原の小学校」

                   

オープニングの映像が素晴らしい。

 

84歳で小学生になろうとするおじいさんと、それを(最初のうちは)拒否する教師の表情がいい。
そして、物語はこの二人を中心に進んでいきます。

 おじいさんの学びたい、獣医になりたいという強い情熱のウラにある強烈な人生はケニア独立への歴史でもあることが分かってきます。

教える側の教師は、かつての宗主国イギリスに翻弄されながらも、教えるということについて学び、自身の生き様をも問われます。

 教えたり、教えられたりにも人生がかかっている重みがあって、登校拒否や引きこもりが問題になるこの国にとっては、より本質的なことが描かれていると思いました。

 
サラの鍵                

 「サラの鍵」は昨年公開された「黄色い星の子供たち」と同じく、第二次大戦中の1942年7月、ナチス占領下のパリでユダヤ人がフランス警察に一斉検挙された「ヴェルディヴ事件」を題材にした物語である。

パリで暮すアメリカ人ジャーナリストのジュリアは、ヴェルディヴ事件の取材を通じて、自分の夫の家族とこの事件の関連に気づいていく。事件の当日、10歳の少女サラは、可愛がっていた弟を納戸に隠して鍵をかけた。「すぐに帰るから」と言い聞かせて。現代と過去を交錯させながら、あるユダヤ人の家族の過酷な運命を描いていく。サラが収容所から脱走する時、見張りの兵士に「私はサラ」と言って握手を求めるシーンが強烈な印象を残す。

しかしあの戦争が終わって70年近く年経っているのに、なぜこれ程までにこの種の映画が作り続けられるのか。本作以外にも今年公開された映画「あの日あの時愛の記憶」「アンネの追憶」「善き人」「ソハの地下水道」等々秀作揃いである。この映画は、人間という動物が、今も現実に繰り返し続ける「戦争」や「虐殺」と、その絶望的な事実に目をつむらず、しっかり見つめながら生きて行こうとする、「現実と寝ない」人々の物語でもあり、「今」を生きている我々の世界の話なのである。サラに握手を求められているのは「私」です。 (二郎)  

 
「人生 ここにあり!」               



イタリアのジュリオ・マンフレドニア監督の作品。イタリアでは一九七八年に、世界で初めて精神病院を廃止する法律が制定された。映画は、精神病院から解放された患者たちで構成された共同組合を舞台に展開される実話を基にした物語である。精神病院の非人間性を告発した映画には「カッコーの巣の上で」をはじめ名作も多いが、実際に病院を廃止する、本当にそんなことが可能なのか?その後の患者達は、家族は、社会は・・・

正義感の強い主人公のネッロは、その情熱があだとなって労働組合の組織から追放される。行きついた先が病院付属の「共同組合180」。そこでは閉鎖された精神病院の元患者たちが単純作業をしながら無気力に生きていた。様々な困難や悲劇に立ち向かいながら、彼等と共に生きていくネッロが、人間として成長していく物語でもある。

やさしい国と自他共に認める日本国では、特に最近犯罪者に対して厳罰化を求める動きが拡大しているようなのだが、(やさしい分だけ、その裏側の残酷さも無関心さも大きい?)精神を病む人を含め弱い立場の人間に対して寛容な社会こそ、我々の目指す社会ではないのかと映画は問いかけている。ぜひ多くの人にみて欲しい映画である。 (二郎)




■「アンダンテ~稲の旋律~」
                                                

人と人は繋がって生きていく
もともと女優さんについて詳しくはないのですが、新妻聖子という女優さんもこの映画で知りました。ミュージカルの世界などで活躍している人だそうですが、映画の演技も中々のものでした。共演の筧利夫さんもよくしらない俳優さんでしたが、この作品での二人は光っていました。

 筧利夫演じる晋平は有機農業に頑張っている心優しい青年で、新妻さん演じる千華は引きこもりの女性で、この二人を取り巻く様々な人たちがいて、結局人間は繋がって生きていっているのだな、ということがよく分かります。同時に、親の期待や価値観が子どもへの大きな負担になっていることも、よく分かります。真面目な、ある種良く出来た子どもほど大変なのだな、とも思いました。

 人が生きていくには遊びが必要です。逃げ場所も必要です。そんな遊びや場所がないと行き詰まってしまい、この映画の千華も正にそうでしたが、千華はSOSを発信し、たまたま受け止めてくれる人と出会うことが出来ました。その後は、農を介在させての人と人との関係性の中で、彼女自身の力で立ち直っていくことになります。そのことが同時にまた、母親など周辺にも好影響を与えていくことになります。

 引きこもりが一つのテーマである作品ですが、そこでのハウ・ツーを越えて、人間ドラマとして成功していると思います。合わせて、人間のための農のあり方についても考えさせられます。

 タイトルのアンダンテは、千華とピアノとの関係からも来ていますが、「歩く速度でゆっくりと」を表す音楽用語が元ネタだそうです。

 原作の旭爪あかねさんは、自身の引きこもり体験を千華に反映させて書いているそうです。(お)

■ 「忘れない」                            山本二郎

「天災は忘れた頃にやってくる」と言ったのは寺田寅彦らしいが、東日本での大地震は、以前から規模の大きさはともかく、その発生はかなり予想されており、今回の被災地でも避難訓練は繰り返し実施されていた。それでもこのような大災害を引き起こす。

人間の存在、その営みといったものは、自然の持つ破壊的な威力の前では芥子粒のようなものだと、まるで映画の中のCG映像のように、黒々とした大津波が押し寄せ、引いてゆく場景を見ながら思い知らされる。忘れ勝ちなのは、災害がやってくるということではなく、人間が実にちっぽけな存在だという認識かもしれない。大自然の中で人は、蟻とまったく変わらない塵のような存在でしかないのだ。 
1923年の関東大震災を経験し、調査した寺田寅彦が「この世の地獄は、地震そのものよりも、地震の直後に発生した火災と、その延焼によって出現し拡大した」と述べている。72年後に発生した阪神大震災でもほぼ同じ状況であったが、今回の震災は、その直後に襲ってきた津波が、被害を拡大し地獄を出現させた。しかしそれも古来自然の中では、繰り返し起きてきたことではある。今回新たに加わった泥沼のような地獄が、絶対安全とうたわれて建設した原発である。絶対安全?大自然を前にして、何と言う人間の思い上がり、驕りの言葉であったろう。

ピュリツアー賞を受賞したジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」という本には敗戦後、敗北を抱きしめて生きようとした日本人の、苦難の歩みが実に丁寧に描き出されており、当時の日本人の心情を初めて教えられたような気がした。今回も地震後の日本人の対応は、世界の人々から称賛されているようであるが、日本中が焼野原になった戦後と異なり、贅沢な暮らしに飼い慣らされている現在の自分たちに、この震災を今後の日本の一つの転換点にすることはできるのだろうか。一番影響の大きいのは原発の問題であろう。もう戦争はこりごりだと、日本のほとんどの人間が心底思ったから、その後日本では戦に慎重な年月が続いた。もう原発はこりごりだと、今回の事故で日本人が心底思うだろうか。自分たちの快適な生活を犠牲にして、原発建設に反対することができるだろうか。原発廃止に向けた歩みを、始める事が出来るのだろうか。

未来のエネルギーをどうするのか。去年(2010年)封切られた、鎌仲ひとみ監督の「ミツバチの羽音と地球の回転」というドキュメンタリー映画は、瀬戸内海の祝島とスウェーデンを舞台にした、エネルギーの自立に取り組む人々の物語であった。
 中国電力が1982年に原発建設を発表した山口県・祝島の住民達の、今も続く28年間の、粘り強い反対闘争と日々の生活の様子を追い、2020年代に原発廃止予定のスウェーデンで、地産地消型のエネルギーに転換するための活動に取り組む人々の様子が語られている。この種の作品に有り勝ちな、単純な原発反対の映画ではなく、これまでの問題点をあげつらっただけの、知識や情報だけの映画でもない。今生きている、息をしている人間の、喜びや悲しみの呼吸を感じさせる物語が展開されている映画。

未来のエネルギーに対する変革の鍵は、一人ひとりの個人が主体的に責任を持つことだと、スウェーデンの担当者も、祝島の住民も主張している。忘れないでおこう。

芥子粒のような、塵のような存在ではあるが、満開の花の下でも、目にしみる若葉を見上げても、天地に人間の静かな慟哭が満ち溢れるような春である。

■ 「ヤコブへの手紙」                            
「ヤコブへの手紙」を観ました。北欧フィンランドの映画です。目の見えない牧師ヤコブの教会に、殺人で終身刑の判決を受けた女レイラが恩赦によって、12年暮らした刑務所からやってくる。片田舎で一人暮らす年老いた牧師のもとには、さまざまな悩みを持った人々からの手紙が、郵便配達人によって毎日届けられている。レイラの仕事は牧師のために手紙を読み、返事を書くこと。嫌々ながら仕事をするレイラと、手紙だけが楽しみのヤコブ。突然やってきたレイラに不信感を持つ郵便配達人。やがて生きがいだった手紙が来なくなって、ふさぎこむヤコブ。

レイラは世界のどこにも自分の居場所を見つけることが出来ない女。心に大きな傷を抱え、他人と意思を通わせることのできなかった女の胸の奥に、ふっと芽生える「あわれみ」のような感情が、手紙が来なくなり呆けて孤独と憂愁に沈みこむ牧師に、架空の手紙を読んで聞かせ、やがて自分の中に封印してきた苦悩を吐き出させる。「親愛なるヤコブ牧師・・」

 人は人との絆によって生き、生かされ、救われることを、ヤコブに手紙を届ける郵便配達の男を含め、スクリーンからはみ出す程大写しになる人間の表情が、少ない台詞以上に静かに真摯に語りかけてくる。首にロープを掛けたまま机の上に乗り、じっと死を見つめる孤独なレイラの表情。教会の祭壇の前で「誰にも必要とされなくなった」と、正体もなく一人横たわる盲目の牧師。野原でベンチに座り、救いを求めるレイラの魂の奥からの呟きに答えた後、息を吹き返したように裸足で泥道を帰ってゆくヤコブの、背を曲げた後姿の美しさ。静かに降っている雨の音さえ、人間が生きていることは、何者かの恩寵であるかもしれないと思わせる。

役者と演出の素晴らしさ。人間の生と死、そして再生を、静かに見つめている何者かの気配も感じさせる、寡黙で骨太な美しい映画でした。映画を見続けていると、何年かに一度こんな映画と出会える。観ることの喜びが胸に溢れてくるような映画。一人でも多くの人に観てもらいたい映画である。 (二郎)



■ 懸命に羽ばたく少女「冬の小鳥」                                

 大好きな父親に思いがけず棄てられた九歳の少女ジニ。父親は必ず迎えに来ると信じ行動する少女のいじらしさに胸をうたれ、やがて本当に自分は棄てられたのだと理解せざるをえない状況におかれた彼女の悲しみや悔しさ切なさが身に沁みる。ジニを演じるキム・セロンの、とても演技をしているとは思えない存在感のある自然な姿が強い印象を残す。利発そうな目や気の強そうな口元、笑顔のあどけなさ、孤独に光るような瞳から流れ落ちる一筋の涙も、胸の奥まで深々と沁みとおってくる。孤児院で暮らす子供達や寮母、シスターや院長といった人々の描き方も含め、この種の映画に有り勝ちな涙や情に流されたり、社会の矛盾や正義を殊更に振りかざしたりせず、それぞれの人間を丁寧に理性的に時に哀しみの眼差しで温かく見つめながら、嘆き苦しみ怒る人間の絶望と再生の物語を坦々と描いて行く。実に見事な演出である。
 
 父親に新しい靴と服を買ってもらい、一緒に食堂でご飯を食べる。父親の飲む酒を一滴指につけ笑いながら舐めてみるジニ。「私、歌ってあげる」と少し古い歌謡曲を楽しそうに歌う。自転車の後ろに乗って、父親の大きな背中にしがみつきながらもう一度歌う。一滴の酒、一滴の涙。夜空に響く少女の唄声。小鳥のお墓を掘り返し自分の手で自分を埋葬した少女が、顔にかけた土をはねのけ、泥まみれの顔で空を見上げる。どの場面も心の中に居座って離れない。
 
 この映画に感銘を受けるのは、脇役が素晴らしいせいでもある。韓国映画の実力をみせつけながら、どこか監督の育ったフランスの香りもする感動作である。 (二郎)